遠方より眺めるその姿が戦艦「土佐」に似ている、ということから「軍艦島」の異名を持つ端島は、長崎港の沖合に浮かぶ周囲1200メ−トルの小さな島です。1890年に三菱の所有に帰してから、端島は石炭の供給地として異様な発展をとげ、1974年に閉山するまでずっと「最高級炭」を産出し続けました。そしてこの小さな島に、多数の朝鮮人・中国人労働者の存在がありました。(日本の敗戦前後、端島在住の朝鮮人約500〜800名・中国人約200名:『長崎在日朝鮮人の人権を守る会』調査による)
朝鮮半島より連行された徐正雨(ソ・ジョンウ)さんは、次のように証言しています。
「島は高いコンクリ−トの絶壁に囲まれています。見えるのは海、海ばかりです。こんな小さな島に九階建ての高層ビルがひしめいています。驚きました。私たち朝鮮人は、この角の、隅の二階建てと四階建ての建物に入れられました。一人一畳にも満たない狭い部屋に7、8人いっしょでした。‥‥私たちは糠米袋のような服を与えられて、到着の翌日から働かされました。日本刀をさげた者や、さげない者があれこれと命令しました」
「この海の下が炭坑です。エレベ−タ−で立坑を地中深く降り、下は石炭がどんどん運ばれて広いものですが、掘さく場となると、うつぶせで掘るしかない狭さで、暑くて、苦しくて、疲労のあまり眠くなり、ガスもたまりますし、それに一方では落盤の危険もあるしで、このままでは生きて帰れないと思いました」
「こんな重労働に、食事は豆カス80%、玄米20%のめしと、鰯を丸だきにして潰したものがおかずで、私は毎日のように下痢をして、激しく衰弱しました。それでも仕事を休もうものなら、監督が来て、ほら、そこの診療所が当時は管理事務所でしたから、そこへ連れて行って、リンチを受けました。どんなにきつくても「はい、働きに行きます」と言うまで殴られました」
「同胞たちのことを思うと、いつまでも胸が締めつけられる思いがします。軍艦島なんていっていますが、私に言わせれば、絶対に逃げられない監獄島です」
(以上、『原爆と朝鮮人−長崎朝鮮人被爆者実態調査報告書第2集』長崎在日朝鮮人の人権を守る会・1983年刊より)
端島は、近年世界遺産に登録(といっても実際は護岸の一部と見学できない第三竪坑の遺構のみが登録)され、観光客も多く訪れますが、朝鮮人労働者についての説明などは全くありません。当資料館で「軍艦島」のもう一つの顔を確認されることをおすすめします。